まずは根を張れ、実るのはその後からだ
日本物理学会誌 68 (2013)Web増補版
大関真之
はじめに
10ヶ月海外を楽しんで来なさい.こう言われたら本気で遊び、思い出を沢山作ってくることでしょう.10ヶ月で結果を出してこい.そう言われたらきっと焦るでしょう.
この文章では私のローマでの滞在で巻き起こったこと、それを皆さんに紹介します.若い読者の方々は、成功者の秘訣みたいなものがきっと書かれているものと期待して、目を輝かせながら読むかもしれません.でもここに書くのは、そんなものではありません.あしからず.
ローマとの出会い
ローマとの縁は、修士2年生のとき、憧れの国際会議に初めて参加したときからだ.人生初の英語発表.事前の練習は全くうまくいかず、指導教官にギブアップ宣言をしたくらいで、「君にはこれだけの国税を投入しています.」と叱られながらも、なんとかやりきったことを覚えている.当時貯めていたお金でイタリア製の財布を帰り道に買ったことも良い思い出である.会議では周りと違う雰囲気の紳士がひときわ目立っていた.スピングラスを始め統計力学の分野で広く知られるGiorgio Parisi氏そのひとである.
時は流れて、そのParisi氏からローマ大学物理学科の研究員として働かないかという話が舞い込んで来た.数日間という短いものではなく、今度は10ヶ月という比較的長い期間である.
いざローマ!
そもそも長期滞在するにはVISAが必要となる.その申請に必要な一部の書類をイタリアから取り寄せて申請をするわけだが、一向にその書類が届かないというのは皆様も予想通り.もっと大変だったのは在日本イタリア大使館があの大地震のあと、在日本イタリア人の対応で手一杯で日本人の対応をする余裕がない!と言う事で閉鎖した事だ.VISAの申請の受付を再び開始したのは3月30日以降であった.私は4月1日付でイタリアに渡る予定であったので、3月31日には家を引き払っていた.しかも申請は事前予約制で大使館業務再開後すぐに予約が殺到する事となり、春の京都にホテル住まいをして予約した期日まで待つ羽目になった.しかし、である.何が書類として必要なのか、事前情報は一切ない.噂しかないのである.いわゆるインターネットで過去の経験者のコメントを見て調べるしかなかった.更に申請受付の応対をする人によって対応がまちまちである.そして不足書類が有ると言う事で一回目は門前払いとなった.不足書類というのはイタリアで住む家の大家の身分証明書にあたるもののコピーである.イタリアとの時差を有効利用して、なんとか次の申請の機会の当日に間に合わせる事が出来た.その時に対応した人は、そんなものは要らないと返して来た.もう一度言う.“人によって対応がまちまちである.”
まあこんな形で出国前からケチがついた長期滞在がようやくスタートした.ああ良かった良かったと言う訳には行かない.これはほんの枕に過ぎない.
無事にローマに??
イタリアでは長期滞在者(8日以上で長期!)にはVISAとは別に滞在証明書というものを到着後3ヶ月以内に発行して受け取らなければいけないという法律がある.ローマ到着後まもなく、その滞在証明書の発行機関である警察署に出向いた.すぐさま発行されるかと思いきや、大学で記入した情報そのままを封入した“滞在証明書発行キット”というものを貰えるだけだった.別にそのキットに何を記入することもなく、ただ郵便局において必要な値段の切手・印紙の類いを付けて警察署に送り返す.もちろん書類の送付だけではまだ駄目で、後日決められた日時に、次はローマ郊外の警察署で身体測定や入国の目的等を申告する.警察署に到着すると門には何人もの書類不備や遅刻等で跳ね返された人であふれかえっており、軍人が銃を構えて門を守っていた.そこをかき分けて軍人に向かって大声を張り上げて自分の存在をアピールするのは中々勇気の居ることである.ちなみに英語は全く通じなかった.イタリア語で入国目的等を伝えている合間に「物理学の研究?放射線か.大変だな.」と言われたことが印象深い.一連の問答を終えた後に、7月のいついつ“きっかり”にこの警察署に行けと言われた.今でもあの“esatto (exact)”の発音は忘れない.まったく当てにならない厳密解であった.4月の入国からすれば3ヶ月ギリギリであるから、もちろん貰い損ねたら法律違反となる.律儀に厳密解に従った.
私:「滞在証明書を受け取りに来ました.」警察官「番号は?」私「○○番.」
警察官「まだ出来ていないみたいだ.来週来ると良いよ.」
—翌週、
私「滞在証明書まだ?」警察官「番号は?」私「○○番.」
警察官「まだ出来ていないみたいだ.来週来ると良いよ.」
—翌週、
私「滞在証明書まだ?」警察官「番号は?」私「○○番.」
警察官「まだ出来ていないみたいだ.来週来ると良いよ.」
—翌週…以下同文.
皆さんご存知の通り、等差数列の和は発散する.結局帰国の日まで私は滞在証明書を見たことがない.
ちなみに7月にはスペイン出張を控えており、シェンゲン協定国間の移動なので基本的には国内移動と同等の扱いであるから、本来は特段の必要な手続きはない.しかし滞在証明書が出来ていないために、警察に捕まってしまいローマに戻って来られる保証がないから、とローマ大学の秘書に全力で引き留められた.そもそもローマに居る時点でも違法状態なのだが.スイス人の留学生に相談をしたら、「そんなはずはない!きっと移動出来る!」と方々に電話をして調べる事にした.ちなみに彼も滞在証明書は持っていなかった.しかしイタリアの警察署、外務省関係の問い合わせ機関、どこにも電話は繋がらなかった.
電話はなるのだが、たらい回しにされているようで、次々と転送されて、6番目の転送後、電話は切れた.
在イタリア日本大使館に問い合わせたところ、グレーゾーン的な話は出たが、無事にローマに戻れるという保証のできる“正式な回答”は得られなかった.
その頃には正直ノイローゼ気味になっており、どうとでもなれ、強制送還されてもよい!と開き直っていたため、結局自己責任でスペイン出張を果たした.後に自己責任でフランス、ドイツへの移動も果たしている.
ちなみにローマ滞在からの帰国はドイツ経由で、そこでの出国審査のやり取りは自分でも秀逸であったと思う.
審査官「イタリアに長期で居たなら滞在証明書をもっているはずだ.見せろ.」私「イタリア人がそんな律儀に仕事すると思う?」
審査官「………通っていいよ.」
と通してくれた.
給与問題、そして研究活動での問題
いざ書き始めたら色々思い出して手が止まらないものだ.滞在費用等全ての経費がローマ大学から支出される予定であったが、これについても事務手続きに翻弄された.銀行口座の開設を行ったあとで、すぐに事務に口座の届け出をした.もちろん到着した月にすぐ支払われるとは思っちゃいない.しかし翌月になっても一向に支払われなかった.翌々月の末でも支払われず、さすがに頭に来て、大学事務室に乗り込むと、事務員は「手続きの遅延なんてあり得ないわ、私は知らない!」とシラを切った.その方の手元にあるキーボードの下に口座の届け出の書類が挟まっているのを見て、私はがっかりした.それを指差して怒鳴りつけてようやく7月の月末にこれまでの分が振り込まれた.
上記の通り遅延こそしたものの滞在費用も先方が捻出していたのだから、私のローマ大学の滞在はちゃんとした待遇のものだったと思っている.いや、そう思いたい.そう思いたいと敢えて言う理由は、発行された大学のIDの裏には、「この者には土日・夜間の大学構内への入構を禁ずる.」と書いてあり、憤慨したことがあるからだ.他の研究員は違うIDカードで、彼らには夜間用の鍵も渡されていた.もしかして実はちゃんとした研究員として扱われていなかったのか?今でも謎だ.貸与されたデスクトップPCはCPUファンが轟音を立てて使用もままならなかった.もちろん修理を頼んだ.修理はPCを傾けて音が鳴らないところを探すという対応で済まされた.共用ネットワークプリンタがその轟音の鳴るPCでしかアクセス出来ず、皆に迷惑をかけつつ、やっと印刷をして論文を読んでいた.しかし多くの場合、午前中にしかプリンタを認識しなかった.驚いたことに年末年始は全く認識しなかった.最終的には個人でプリンタを買って家で印刷する始末.いたるところで不満の残る生活であった.
いつも一緒に居たSerzioとAlejandro.
実際の研究生活についても戸惑いに包まれた.日本の研究室やプロジェクトであれば、決まったグループでの定例会等があるだろう.しかしローマ滞在が始まってから一度も定例会の類いはなかった.これまでの経験から定例会等の参加を通じて問題意識を共有し、それに沿った研究を遂行するのには自信があり、その経験を生かしてイタリアでも挑戦しようと思ったのだが、一気にその方針は崩れ去った.しかしParisi氏が唸る研究をしてやろうと、ある程度完成するまでは!と一人の世界に入り込み、空回り運転をし続けてしまった.正直私のイタリア修行は当初、完全に失敗だった.
何もかもが翻弄された生活であったから余計感じることだが、日本であればこうだっただろう、こんなことなかったはずなのに.と文句ばかりを口にするような毎日となった.いつの頃からか、帰れるまであと何ヶ月だ、と指折り数え始めていた.ずっと日本中心の考えを持ち続けていた.今思うに、そこが失敗の原因だったと思う.
気楽にやろうよ
夜間及び土日に入構禁止というのを良いことに、というよりどうすることも出来ないからというべきか、同居人達が音楽学校の学生だったので、音楽仲間と夜な夜な食事やコンサートにはよく出かけた.週末の夜は教会コンサートに行った.ようやく職を手に入れたという上機嫌のイタリア人には車を飛ばしてもらい、ローマ郊外の露天風呂にも行った.本当のテルマエ・ロマエである.自転車も買って郊外を走り回った.スペイン人の友人とロッククライミングにも出かけた.別の研究員仲間には誕生日祝いパーティで得意の料理を振る舞った.物理学者対抗ゲーム世界大会では見事に優勝した.任天堂のWiiは世界平和にも貢献しているのだ.研究成果が出るまでは外に観光に行かない、などと決め込んでいたのを改めて、写真をとにかく撮りまくった.その写真は今でも自分の個人HPに利用している.とにかくとにかくイタリアを楽しんだ.楽しむほかなかった.毎日ピザと生ハム、そして赤ワイン.
結局研究は完成を迎えず、滞在期間の半分強はとうに過ぎていた.しかし、イタリアに染まり始めた新しい自分にとっては、そんなこだわりはどうでもよくなっていた.久しぶりにParisi氏に会った時に、こう話しかけた.「あなたと研究がどうしてもしたい.何も出来ていないけど、とにかく議論をさせてくれ.」と.忙しく次の会議へと歩みを進めていた彼は立ち止まり、「Si, Certo(ああ、もちろんだ).」と答えてくれた.彼の部屋に朝一番で入り、今後の研究の方向性を決めることに成功した.チョークだらけの指で鼻をこすって、真っ白な顔になっていく統計力学の巨人の顔は忘れられない.車で逆走をしてしまう、ちょっとあり得ない人だと言うのは内緒だ.そんな小話も周りと打ち解けてやり取りが出来るようになってから伝え聞いた.それからは定期的に議論をするようになった.変なこだわりを捨てたあの時からだろうか、この時にはすっかりイタリアの研究員である“Masayuki Ohzeki”になっていたと思う.日本人の衣を脱ぎ捨てたのは、イタリアに根を張って生活をし始めたからだろう.
左からFederico,Giorgio,私,Ulisse.
この原稿のタイトルを、再び見てほしい.これから異なる土地で修行をする人に是非伝えたいことだ.まずは現地人の生活にどっぷり浸かり、地元を忘れて、心の底からその土地に染まってほしい.そこから見える世界に生きることで、ようやく始まり、ゆくゆくは活躍が出来るのだと思う.ここで表現を弱めたのは、自分自身が満足のいく活躍が出来たとはさすがに思えないからである.総じては失敗であった.でも楽しかった.
今はどうだい?
帰国してから早一年、個人的にイタリアを訪れる機会に恵まれ、懐かしくなってこうしてこの原稿をしたためている.ああそういえば思い出した.ローマ滞在最終日にスリにあったのだ.その時盗まれたのは、なんと初めての国際会議の帰りに買ったあのイタリア製の財布である.ちなみに計算ノートや書籍等、重いので別送して帰国したがどれも届かなかった.イタリアの配送センターのいい訳もすごかった.「2月1日ローマで大雪が降ったじゃん?あれで荷物がバラバラになったんだよ!!」
どんだけおっきな鉄球のような雪玉が降ってきたというのだ.
というわけで、全ての思い出をローマに残した格好である.
指導教官であった西森秀稔氏のスピングラスの本についても失った.
最終日前日には銀行員のミスで日本に預金全額を送金する前に口座を閉鎖されて、「金がないじゃん」と言われて大立ち回りをした.最後までイタリアらしいではないか!
え?結局今はどう思っているのかって?もし10ヶ月海外で修行をして来なさい、といまそう言われたら喜んで行けるかな.
え?イタリアでの研究は結実したのかって?嫌だね〜日本はせわしくて.イタリア人らしく、赤ワインでも昼間から飲みながら、のんびりやりましょうよ.
悪いことばっかりじゃない
SPDSA2013のバンケットの様子.日本酒にほろ酔いのイタリア人.
そんなこんなで嫌な思い出に近かったイタリア滞在であるが、時間が過ぎれば良い思い出に変わる.人間の都合の良いシステムのおかげであろうか.
しかしちょうど1年経過した頃に、東北大学の田中和之先生の支援により、ローマ大学のFederico Richi-TersenghiとTommaso Rizzoを招聘して研究会を開催することができた.「Masayukiにはローマのうまいワインをごちそうしてやらないといけないな」とFedericoに言われたのに妙に感動している.
この繋がったリンクを今後の自分の研究活動の糧にしていくことが、本当に良い思い出とするための業である.そう信じて、今年(2013年)の夏には、
Italia-Giappone attraverso il futuro- A bridge across the future-
と題した日本とイタリアの交流会を開いた.Federicoから学生やPDの派遣を受けて成功したものである.
悪いことばっかりじゃない.確実に残っているもの、自分に影響を与えたものがある.
近所の公園コロッセオ、徒歩15分程.
ほかにもイタリアで同居していた友人、そしてその周辺の若い人たちが更に成長していっている様子を見たりするとうれしくなる.ついこの前、その一人が京都に遊びにきてくれて懐かしい話と、今もなお苦労しながらも元気にやっている様子を聞くと、妙にローマに再び行きたくなってくる.そこで話題になったことは、毎日理不尽と戦ってきたから、たくましくもなる!っていうことだった.その人は可憐な女性だったのだが.
そうそう個人的にイタリア訪問を実は今年の春にしている.仕事とは一切無関係に単純に観光としてである.近所の散歩をしているような気分に戻るのは、そこで過ごしてきた人間の特権である.近所の公園のひとつがあのコロッセオであるというのはなんとも贅沢である.
大学の隣のピザ屋、毎日そこで昼ご飯を食べてイタリア語の会話の修練所であったところは、儲かっているのだろうか装いも新たに繁盛していた.味は変わっていなかったのがうれしかった.insalata di poloが大好きだったが、その日は売り切れていたようだ.僕が居た頃は必ず残っていたのだが.それは僕が来る頃に用意してくれていたからなんだけど.そんなことを思い出すと僕はローマにいたんだな〜というのを妙に実感する.
新生ピザ屋の様子.元々はUniversita Pizzaだったはず.ピザ屋の店員姉弟.ご夫人が僕のイタリア語の師匠.大好きな町の一つであるフィレンツェにも立ち寄り、当時は怖くて乗れなかったバスも自由に乗り回せるようになっていた.ヴェネツィアもひたすら脇道を縦横無尽に歩き回る探検を久々にして、狙った通りのところに到達できるのもまだまだ身体にイタリアの雰囲気が残っているからなのだと思う.そう悪いことばっかりじゃなかったのだ.
その瞬間、自分にいらだちを感じさせることがあっても、次の瞬間、それをどう感じようとするか、それに掛かっている.
どんな形で自分は変化していくだろうか.楽しみで仕方が無い.